寺宝と文化財
須磨寺ゆかりの寺宝です。紹介している宝物以外にも多数宝物館等に展示してあります。
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木造十一面観音立像(国指定重要文化財)
南北朝時代 須磨寺蔵
十一面観音は、頭上に十一の顔をいただいている観音である。十一面は菩薩面三面、瞋怒面三面、大笑面一面、阿弥陀如来の化仏一面からなる。
寄木造で玉眼をはめ込んでおり、像高八四センチの小像である。
小振りながら端整な眼鼻立ち、引き締まった口元など、細緻な技法で彫られている。脇から胴にかけてぐっとしぼり込み、腰を少し左に引いて右足をゆるめ、自然な姿で立っている。 -
鰐口わにぐち(県指定重要有形文化財)
南北朝時代 貞治5年(1366)
鰐口とは、神社の拝殿や寺院の堂の前の軒先に吊り下げてある円形扁平状の金属製の具である。
この鰐口は直径四六・七センチ、厚さ一七・八センチあり、撞座には八葉の蓮華文を浮き立たせている。貞治五年(一三六六)に式部法橋長賢が願主となり、福祥寺に寄進した旨の銘がある。 -
普賢十羅刹女像ふげんじゅうらせつにょぞう(国指定重要文化財)
京都国立博物館貸出中・南北朝時代
羅刹女とは、本来は悪女の意であるが、釈迦が法華の説話を行った時、鬼子母神とともに仏道に帰依した十人を羅刹女と呼んでいる。それは藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐帝・奪一切衆生精気の十人である。
本図は、六牙の白象に乗った普賢菩薩を中心に、多聞天・持国天、薬王菩薩・勇施菩薩、そして十二単衣姿の十羅刹女が、法華経を受持する者を護るために紫雲に乗って飛来する姿を描いている。 -
当山歴代 2巻(県指定重要有形文化財)
南北朝時代~江戸時代中期
福祥寺は上野山と号し、一般には須磨寺の名で知られている。昭和二十二年に独立して、真言宗須磨寺派の大本山となった。
本巻は当寺の日記にあたり(福祥寺古記録)、南北朝時代から江戸時代にわたる出来事を、歴代の住職が書き継いできたものである。 -
福祥寺本堂内宮殿及仏壇(国指定重要文化財)
仏像安置用の小建築模型で、宮殿をかたどったものを宮殿と呼んでいる。当寺の宮殿は、寺記「当山歴代」によれば、応安元年(一三六八)式部法橋長賢によって製作されたとなっている。
仏壇は下層が唐様、上層が和様の二段からできており、折衷様式のうちでも異色である。壇上に一種の基壇があり、それに宮殿がのっている。宮殿は三間で、組物は唐様三手先である。 -
釣灯籠
南北朝時代 延文庚子5年(1360)須磨寺蔵
銅板鍍金の六角形釣燈籠。屋蓋のつくり、照りの部分の透かし、長押によって分けられた軸部の透かしなど、いずれも妙法寺に伝わる釣燈籠によく似ています。また、銘文の配し方も同じですが、延文庚子(5年)六月二日と判読でき、妙法寺のものより後であることがわかります。形がよく似たものであり、銘文の年代も近いことを考え合わせると、妙法寺、須磨寺両寺の燈籠寄進者は同一人物であったかも知れません。
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木造不動明王立像ふどうみょうおう(県指定重要文化財)
南北朝時代 応安2年(1369)
左目をわずかにすがめ、左手に索(後補)、右手に剣(後補)を持って立っており、像高九十センチである。
桧材、寄木内刳り、彩色を施し玉眼を入れている。上膊・手首・足首に銅製の釧(腕輪の一種)をつけている。肉身は群青塗り、裳に唐草文、花円文、条帛に雷文崩し、唐草文、小花文などを描き、頭髪には切金筋を入れている。
左足枘の内側に朱漆で、法印康俊作応安二年(一三六九)九月十八日の銘がある。康俊は興福寺大仏師で、遠く九州の造像にもあたっている。本像はその最晩年の作と考えられる。 -
銅鐘
室町時代 長禄4年(1460)須磨寺蔵
「弁慶のつり鐘」と呼ばれ親しまれている銅鐘です。乳は1区内に4段4列の配列で、池の間の相対する2区には銘文が陰刻されています。撞座は新式で、竜頭の長軸線上にあり、下帯に文様はなく、駒の爪はよく発達しています。池の間の銘文から、もとは摂州矢田部郡山田庄原野村(現北区山田町原野)にあった安養寺という寺院の鐘であることがわかります。また、大工(鋳物師)丹治直則という、銅鐘鋳物師としては最も著名な丹治氏の名が見られます
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石造十三重塔(県指定重要文化財・指定昭和46年)
不動堂の東、泉水の傍らに建っている。もと奈良県山辺郡の来迎寺にあったが、後に須磨一の谷、藤田邸に移され、さらに昭和三十六年、手塚氏がこれを譲り受けて当寺へ寄進し、現在の地に移した。
花崗岩製で、総高五・二四メートルある。軸部四方には月輪を大きく刻み、内に金剛界四仏の種子を深く彫っている。屋根石は軽い軒反りをもち、相輪上部の四方にイボ状の水煙が付いている。軸石の北面中央に嘉暦二年(一三二七)の刻銘がある。