一絃琴発祥の地「須磨」に伝わる伝統の調べ

須磨琴の歴史

歴史

平安の昔、中納言在原行平(在原業平の兄)が須磨に流謫の月日を送ったことは、古今集、源氏物語、謡曲「松風」、御伽草子「松風村雨」などにも見え、須磨にまつわる貴種流離譚として古くから人口に膾炙しているが、一絃琴はこの在原行平が須磨流謫時代に創製したことに始まるという。彼は須磨の渚に打寄せられた舟板を拾い、それに冠の緒を張り、岸辺の葦を指にはめて、みずからの寂しい境涯を慰めたというのである。
この伝説は、貴種流離譚と一絃琴の起源説話とを後世において結び付けたものであるとして、歴史事実としては必ずしも信用されていないのであるが、一絃琴の簡雅素朴な構造と、哀々楚々たる音調とをいみじくも示した伝説として、今日もなおその存在理由を失っていない。それはまた、一絃琴が今も「須磨琴」と呼び馴らわされる所以でもある。
ところで、すべての絃楽器の原始形態がおそらく一絃から始まったであろうことや、狩猟具や武具としての弓が一絃楽器の祖形を示すものかも知れないということは、容易に想像される。また、わが国の古代の神事に用いられた絃楽器がおそらく一絃琴であったろうということも想像されるのであるが、今は確たる資料がないので断定の限りではない。
とにかく、わが国の文献の上に一絃琴が初めて登場するのは「日本後紀」第八巻、桓武天皇延暦十八年(七九九)七月の条であるといわれる。小船に乗って三河国に漂着した一人の天竺人(インド人)が常に一絃琴を弾じ、その歌声は哀楚であったが、本人の願いによって川原寺に住ましめ、後に近江国に遷り住んだ、というのである。
しかし、この記録は、このインド人が初めて一絃琴を日本に伝えたということを物語るものでもないし、彼が弾じた一絃琴と今日のわれわれの須磨琴との脈絡も不明なのである。むしろ、彼の一絃琴は現代の東南アジアで行なわれているわれわれと別系統の一絃琴に属するものと考える方が自然である。では、現行の須磨琴の形がいつどのようにして始まったかというと、正確にはわからないが、
おそらく、奈良・平安の頃、わが国古来のものに中国琴の影響が加わって、現代の形なり奏法に発展したものであろうと想像される。それは、後述するように、現行の一絃琴の祖形は七絃琴にあり、その七絃琴はおそらく原始的な一絃琴から発展したものであろうと想像されるし、その原始的な一絃琴や七絃琴の形が龍の形を模したらしいというところに、中国文化の影響が認められるからである。
とまれ、現行の須磨琴の確実な歴史は、一絃琴中興の祖といわれる覚峰律師(一七二八-一八一五)の出現に始まる。覚峰は河内国駒が谷の金剛輪寺(今は廃寺)の僧で、高僧の誉れ高く、同時に、学僧でもあって、蒲生君平や加藤千蔭とも親交があり、自らもすぐれた著書を残している。大阪長堀に生まれた覚峰は十歳のころ赤井某について一絃琴を学んだが、やがて一絃琴は断絶した。しかし、覚峰七十四才のころ、幼時の記憶をたどりつつ、一絃琴を再興した。折しも、世は国学復古、王政復古等いわゆる復古思想の勃興時代であった。自らもすぐれた国学者であった彼は、音楽の世界にも復古を試みるという意図をもって、一絃琴の再興を志したにちがいない。

ひとすぢにむかしをしたふ須磨琴の
こころほそくもかきならしつゝ

彼のこの歌は正に当時の彼の志向を物語っている。当時、日本音楽は発達の極点に達していた。それは別の面から評すれば、花柳紅燈の蕩児に愛好せられる音楽に堕した面もなきにしもあらずであった。彼は神ながらの道への憧れを託する音楽としても彼は須磨琴を選ばざるを得なかったのであろう。

松風のかよふばかりぞひとつ緒の
須磨の板琴とふ人もなし

これも彼の歌である。
享和二年(一八〇二)覚峰は、須磨琴の創始者行平を追慕して、須磨に旅し、自製の一絃琴を須磨寺に奉納する。荒削りの杉板で作られた素朴な板琴は今も須磨寺でだいじに宝蔵されているが、仔細に検すると、一見粗末なこの板琴に覚峰が金粉を蒔いて装飾した跡があり、しかも、この琴を叮嚀に桐箱に納めて奉納している。単なる原始性への復帰のみが覚峰のねらいではなかったことが、このことから窺われるのである。
覚峰の門人には、中山備前守、中川蘭窓その他の人々がいた。中山備前守は水戸の家老であり、このころから、次第に同好の士が増え、佐久間象山、平井国臣、坂本龍馬など幕末の志士たちも盛んに一絃琴を弾くようになったという。王政復古を論策する彼等にとって、復古の音楽としての一絃琴がその好尚に投じたのであろうし、志士たちの密議を一絃琴の集りに名を借りる便宜さもあったのであろうと思われる。
中山備前の門人に常陸の杉隈南という人がおり、その門からやがて名人真鍋豊平(一八〇九-一八九九)が出た。この豊平こそ近世の須磨琴の普及にとって、最大の功労者であった。豊平は愛媛県の人であったが、一絃琴を大成してから各地を巡遊して一絃琴の普及につとめたが、やがて京都、次いで大阪を本拠として多数の門人を養成した。その門人数百人といわれる。現行の曲種の過半数が豊平の作詞または作曲になるものであることを見ても、豊平の斯界における業績の偉大さが偲ばれるのである。
豊平の高弟に門田宇平、徳弘太橆、富田豊春、中根香亭、内藤正繩らがいたが、特に宇平と太舞がともに土佐の人であったことから、やがて明治から大正にかけて高知県が須磨琴の一つのメッカとなる機縁が開かれるのである。
それはともかく、十三絃の箏や西洋音楽の流行に押されて、一絃琴は大正、昭和と再び衰退に向い、今次の大戦後にはまさに絶滅寸前の状態にまでなるのである。このような一絃琴の衰退の原因を考えて見ると、洋楽の流行とか、現代人にとって詩句の難解さもさることながら、覚峰以来、一絃琴を純粋の音楽として捉えることなく、復古という思想運動の一環として捉えた一種の精神主義が衰退の真の原因であったと思わざるを得ない。幕末にいたるまでの一絃琴伝承者の多くが国学者や志士であったという事実がそのことを物語っており、幕末の思想運動の必要性の消滅とともに一絃琴の存在理由が見失われたのである。もちろん、明治時代には、敢えて孤高を守ろうという超俗的な精神主義の伝統がまだ余勢を保ってはいた。例えば、明治時代の島田勝子編の「一絃琴正曲譜本」には

一絃琴は高貴なる器なれば、これにあわすべき歌曲も、
おのづからみやびたるをえらぶべし、ゆめいやしきをもちいることなかれ

とあって、卑俗な色恋の沙汰など以てのほかとする態度が見え、このほかにも、一絃琴をむしろ精神修養の具、行儀作法修得の場と見なす態度も見える。しかし、所詮、孤高の精神主義は大正・昭和と進む文化の大衆化の中では一種の貴族趣味として大衆から忘れ去られて行ったのである。
この経過に照らすとき、一絃琴の再々興を願うわれわれの方途はおのずから明らかである。一絃琴を再び他の具に供してはならない。孤高の音楽、隠者の音楽として逃晦を計ってはならない。純粋に音楽そのものとしての存在を主張し得るだけに、質的向上を計らなければならない。一絃琴が音楽そのものとしての鑑賞に耐え得るまでに成長したとき、大衆はおのずから一絃琴のもとに帰ってくるにちがいないのである。

現代の奏者

今次の太平洋戦争のつづく間に、一絃琴は絶滅したかに見えたが、戦後に国の無形文化財制度が制定されたことが契機となって、辛うじて一絃琴奏法の継承者が発見され、その指定を受けることになった。一絃琴の伝承のために誠に幸なことであった。秋沢久寿栄(昭和二十九年指定)、山城一水(昭和三十二年)、倉知志ん・平野美子(昭和三十六年)の四女史である。秋沢女史は門田宇平の門から出た島田流の系統をひき、他の三女史はいずれも徳弘太橆の系統をひいていた。しかし、惜しいことに、この四女史とも無形文化財指定当時にいずれも七十才を越す高齢であったので、その後、次々と死去されて今は亡い。現在、演奏者の集団としては、高知に秋沢女史の高弟稲垣積代女史の率いる白鷺会があり、東京に山城女史の後を受けた松崎春江女史を指導者とする一水会があり、神戸に倉知女史から皆伝を受けた和田国子女史を指導者とする曙会と、同じ和田女史の門から派生したわが一絃須磨琴保存会がある。
このほか、少数ながら、京都、箱根、横須賀などに一絃琴を楽しむ人たちがいるが、いずれも集団と呼び得るほどの人数ではないらしい。