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源平合戦と須磨寺

平敦盛
平敦盛(たいらのあつもり)像

須磨寺の名前が全国的に知られるようになった大きな要因は、寿永3年(1184)源平一の谷合戦の舞台になったことであります(下図参照)。一の谷合戦が行われた時、須磨寺は源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。海と山がせまった地形を利用し、海側に陣を構えた平家の裏をかき、義経は山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます。不意を突かれた平家は、海へと逃げることしかできず、源氏の歴史的な勝利となりました。その戦の時、源氏の武将で熊谷直実という男がいました。

熊谷直実
熊谷直実(くまがいなおざね)像

直実はもともと平家の武将であり源氏に寝返った者でした。元からの源氏の武将に後れをとるまいと、手柄を誰よりも欲していました。しかし、直実が一の谷の浜に着いた時、ほとんどの平氏は海に逃れた後でした。しかし、その中で一人だけ波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を見つけます。そして、直実は扇をかかげ「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ」と呼びかけます。するとその武者は振り返り、直実に一騎打ちを挑みます。しかし、あえなく倒され、直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ年の頃16,7歳と見える紅顔の美少年でした。「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると「あなたはどなたですか。」と聞き返され、「名乗るほどの者ではありませんが、熊谷直実と申します。」そう答えると、「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」と答えたそうです。直実はその潔さに胸がつまりました。この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝ち負けに関係はない。自身の手柄ほしさでこの若い命を落とさせることになってしまう。息子の小次郎が少し怪我を負っただけでも心辛かったのに、この方の父上が討たれたことを聞いたらどれだけ嘆かれるだろうかと思いを巡らせました。助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきます。もういよいよ逃げられまい。「同じ事なら、直実が手にかけて、後のご供養をお約束します」と泣きながら刀をとりました。首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づきます。思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。その笛を見た時、「あぁ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心はいっそう締め付けられました。陣地であった須磨寺に、首と笛を持ち帰った直実は、大師堂前の池でその首を洗い、その前の大きな松の木に腰をかけた義経が首実検を行いました。すると義経は、このお方は平清盛公の弟、平経盛公の子、従五位の敦盛公であるとおっしゃいました。御年17歳でありました。持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはいなかったといいます。後に直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家をする事となります。

平家物語で一番涙を誘う哀話である「敦盛最期」は、その後日本人の心に深く染み入り、語り継がれてきました。それ以来、須磨寺には敦盛の首塚が祀られ、敦盛の菩提寺として広く知られるようになり、源平ゆかりのお寺として親しまれてきました。敦盛の愛用していた笛「小枝の笛」は、通称「青葉の笛」とも呼ばれ、今も須磨寺宝物館に展示しております。この笛を一度でいいから見てみたいと、古来より全国から多くの方がこのお寺を訪れています。松尾芭蕉や与謝蕪村、正岡子規なども当寺を訪れて歌を詠まれています。その歌を残そうと、境内には二十数基の句碑歌碑が点在しています。
また謡曲『敦盛』、舞『幸若』にも登場し、歌舞伎、映画、舞台など様々な演劇の素材として取り上げられています。そして毎年、旧暦の2月7日(旧暦なのでその年によって変わる)には、一の谷合戦源平戦士の追悼法要が執り行われています。

源平の庭

源平の庭

今から八百年前の平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭です。
当時十六歳の無官太夫平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将熊谷直実に討たれた話は平家物語の中で最も美しく、最も悲しい物語として古来語り継がれております。
庭前には、「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑があり、庭の角には弁慶が「一枝を伐らば一指を剪るべし」と制札を立てた、歌舞伎「一の谷嫩軍記」にも登場する「若木の桜」があります。

一の谷の合戦位置図
一の谷の合戦(いちのたにのかっせん)位置図
平氏略系図
平氏略系図
熊谷氏略系図
熊谷氏略系図